それは戦後国有地になっていた八王子の小高い山の南斜面で、マザー岡村は結核患者の退院後のリハビリ施設を作るという名目でその土地を買う許可を得ました。そこは戦国時代の古戦場で兜が原という名前でした。隣接地は市内有力者の精神病院で、結核患者が来ることには近隣住民からも反対の署名が都庁に出されました。
一方、戦後戦災孤児のために多数の養護施設が開設されていて、聖ヨハネ会でも1951年、明けの星社会事業会からの委嘱で養護施設愛聖園定員70名を引き受け小平に新築移転して経営していました。多くの養護施設には知的障害児がいて普通児と同じ処遇はできないことが問題となり、桜町病院には精神神経科があるので聖ヨハネ会が知的障害児、当時の名称は精神薄弱児の施設を始めてほしいとの希望が出されました。そこで八王子の土地は結核のアフターケアではなく精神薄弱児施設のために使用することになったのです。
初めは1954年に児童福祉法による第1種社会福祉事業更生施設、甲の原寮定員50名として建設計画が出され、着工直前にマザー岡村は資金集めとアメリカの社会事業視察のためシスター川久保とともに渡米しました。1955年12月14日高松宮殿下御視察の日に第一期工事を起工。1956年7月1日に精神薄弱児施設甲の原学院定員50名として八王子市中野町に開設されました。当時、精神薄弱児施設は数少なく戦後都内の法人立施設としては第1号、カトリック施設としても初めてでした。最初の子どもたち7名を埼玉久美愛園から受け入れました。門を入るところから少し坂があり、建物は本館と児童棟の信和寮が横並びにできて本館の山側に玄関があり、その向こうに炊事場の建物その2階は職員食堂でシスターたちも初めはこの一角に住んでいました。本館は事務室、管理人室、診療所などがあり北側の一室を聖堂として使っていました。毎朝ミサのために八王子教会から神父様が来てくださり、侍者は診療所の中村茂樹先生でした。徐々に家庭からの入所ケースも増え半年後には定員50名を充足しました。平均年齢9歳。知能測定不能の児童は10名近くいました。10月になると愛聖園からも7名が措置変更されてきました。この年は新しい学院児童等に慣れるために日課表を作りこれに基づいた規律ある生活習慣を身につけるようにしました。