知的障害児の入所は、保護者が児童相談所の福祉士と面接して児童相談所から送られてくるのですが、養護施設から来た子どもがジフテリアの保菌者だったので院内に感染が広がり、児童5、6人保母もシスターも例外なく感染し、院内で隔離して市内の耳鼻科医にも応援を依頼しました。
念願の修練院を含む聖ヨハネ会の八王子修道院を建てるには、学院の上の山の斜面を削って整地する必要がありましたが、資金もなくマザー岡村とシスター川久保は桜町病院と甲の原学院のために毎日都内へ募金に出かけている状況でした。そこでマザー岡村は進駐軍に協力していただこうと考え、愛聖園によく来て手伝ってくださった進駐軍の方に立川ベースの軍の責任者を紹介していただき援助をお願いしました。たくさんの勲章を付けた方々に事情を説明すると快く理解を示してくださり、その2、3日後には山の中腹にブルドーザーが来ていました。その後クレーン車が来て、当時はまだ珍しかったのでシスターたちはキリンが来たと言っていました。兵隊さんたちは礼儀正しく規則通り定まった時間に往復して働いてくださったので、広い土地が整地され2階建ての修道院の建築を始めることができました。学院の第2期工事が完成する前に、シスターたちは職員食堂の一角を返上して急坂の上の新しい修道院へ引っ越しました。
定員100名にするための第2期工事では、大きな食堂とその2階のホール、児童棟1棟、望徳寮、その上方に学習棟1棟が増築されてボイラー室洗濯場など不自由だったところを補うことができて1957年11月に完成し、翌年3月高松宮両殿下のご臨席と厚生省、東京都などの関係者参列の中で落成式が行われました。この頃に小平の愛聖園は廃止されています。当時、増員によって入所した児童は他施設、特に養護施設からの変更が多かったので、高い生活能力、知能指数を有していました。
最初の運動会は児童の父兄がアンパンをたくさん寄付してくださり、牛乳も持ち寄り屋台店を各僚から出し、子供たちも衣装をつけて売り子になり、おもちゃの紙のお金を浅草まで買いに行きました。
お正月の餅つきも子どもたち自身ができるようになり、鯖寿司や押し寿司を作って楽しい食事をしたこともありました。
シスターが子どもたちに日本舞踊「越後獅子」と「娘道成寺」を教えて職員で器用な方が小道具や背景を作ってくださり、桜町病院や立川の日赤に慰問に行ったこともありました。ライトバンに積んで旅役者のようだと喜ばれたこともありました。