終戦後のことで、戦災孤児が多かったので、小平に移転した養護施設「愛聖園」も引き受けました。シスター岡村ふくのことを帰天後マザー岡村と言っていますが、マザー岡村 は総長としてまた「社会福祉法人聖ヨハネ会」の理事長としてカトリック関係の種々の会合に出席しているうちに、ある時、カトリックの児童養護施設の集まりで、施設の子供たちの中にいる精神薄弱児の処遇に悩むということが話題になり、桜町病院には精神科があるので、聖ヨハネ会が精神薄弱児の施設を作ってほしいとの要望が出されました。マザー岡村は祈って、熟慮し、この要望に応える決断を下し、1956年(昭和31年)八王子に精神薄弱児施設「甲の原学院」を開設しました。これは東京都の社会福祉法人立施設として第1号、またカトリック施設としても最初の障害児施設でした。
甲の原学院は増築を重ね、定員50名から徐々に170名となり、児童は年々年を取って加齢児が多くなり、成人施設が必要になってきました。1部屋10数名での生活で、次第に建物の破損、老朽化も進み、閑静だった施設の周辺が宅地開発されて交通量が増え、賑やかな環境に変わってしまったことや、もともと施設が斜面に建っていて、障害の重い児童にとって危険が多かったことなどの理由で、甲の原学院を移転整備することになり、移転先探しが始まりました。
最初は都内に別の土地を探しましたが、費用と広さの点で適当な所が見つからず、当時出来立ての中央高速道路を利用して、親切な方々のお世話に頼り、毎日のように隣接県の土地を探し回りました。とうとう山梨県で何か所か候補が上がり、富士吉田市に隣接する忍野村で、国道138号線から下ってくる現在の学園の土地が快適ということになりました。広さは充分にあり、土地の中央に東電の高圧電線の塔が1本立っていましたが、その下に建物を建てなければ構わないということで、1970年(昭和45年)移転先を忍野村とすることが理事会で決定されました。
土地の取得が決まった時、新しい施設の名称について理事会で取り上げられ、その地域の名前と聖ヨハネ会を入れた方が良いとの提案があり、「富士聖ヨハネ学園」という名称が決定されました。
第1期建設工事は1971年(昭和46年)10月に始まり、着工して少し掘った所、火山岩に当ってしまい、やむを得ず、ハッパ(ダイナマイト)をかけることになり、危険なので、フル畳をのせ、囲いをして、サイレンを鳴らしてから、ドカンと溶岩を砕いていくのですが、これは離れていてもドキッとさせられるような音でした。このようなことで建築のために時間がかかり、また建築資材の高騰により費用もかさみ、第一期工事のあと、工事を中断せざるを得ませんでした。そこでまがりなりにも出来たところへ甲の原学院から一部の利用者と職員が移動することになりました。桂川にかけられた工事用の仮設の橋が当面使用され、その後多くの人の協力があり、新しい立派な橋が架けられました。
1972年(昭和47年)第1回目の引越しは新設の成人部からということになり、児童は18歳までということを考慮に入れて、成人部定員50名で男女25名づつとし、不足するところへ、都内の福祉事務所経由で、待機中の成人を受け入れることになりました。また甲の原学院の定員の中の障害が比較的軽い50名を新設した児童棟(旧すぎのこ・さつき寮)へ移しました。職員宿舎は1期工事では間に合わないため、女子職員には修道院の2階部分を提供し、シスターたちは1階部分で2段ベッドを使って間に合わせ、男子職員は中央棟の2階部分を利用することで、不自由ながら、4人で一部屋を確保した利用者さんの生活に重点を置きました。富士吉田教会の神父様は快く毎朝のミサに来てくださり、その足で山中湖のサレジアン・シスターズの所にもミサに行かれました。