富士聖ヨハネ学園の歩み PART 4

 
 太陽の光、暖かさを求めて、階段の下で気持ち良さそうに寝ていたり、器の中から果物が転がり落ちてしまったら、「あ、歩いて行ってしまった。」落ち葉の散る様を見て「葉っぱのダンス」と何とも微笑ましい表現が出たり、あるシスターが利用者さんに注意をしたら、急にエプロンの首の所の紐をぐいぐい引っ張るので、苦しくなってしまいましたが、「ごめんなさい」ということの表現だったようです。いろいろなハプニングがあります。食器洗いが難しいこともあり、ある職員がうっかり「頭を使って洗いなさい」と言ったら、いきなり蛇口に頭を出したのでびっくりして、反省させられたり、ボランティアのお兄さんたちと散々遊んで別れたあと、利用者さんの姿が見えなくなり、探していると、近くのホテル鐘山苑から電話があり、エレベーターで上がったり下りたりして楽しんでいたようでした。寮のハイキングで、バスが高速道路のパーキングに着いた時、無断外出して来た他の寮の利用者さんが乗ってきて、本人も職員もびっくりしてしまいました。無断外出は時々あり、高速道路を歩いている人があるとの電話があって、急いで迎えに行ったり、自転車で高速道路を走り、パトカーに保護されたり、甲府方面に行きたかった利用者さんが、知らない人の自動車に乗せてもらったところ、その人は警察が捜索していた容疑者だったので、利用者さんは警察に保護され、よく観察していた容疑者の姿、服装、履物まで警官に伝え反対に感謝されたという話もあります。学園の日々の営みの中で、朝、夕に出会う一人の利用者さんは、ある時には走りまわり、ある時には通路に座り込んでいたり、ある時には柱に寄りかかって、じっと佇んでいたりしています。彼の安心しきった表情や姿に、学園全体への神の見守りを感じます。色々な障害ゆえに、それぞれの十字架を負いながらも、「自分の今を精一杯生きている」利用者さんたち、彼らのさりげない言葉、表情、しぐさはいつもわたしたちに癒しと励ましを与えてくれています。マザーテレサの言葉に「喜びを運ぶ器でありなさい」とありますが、利用者さんたちこそ、周りの人々に喜びを運んでくれている器です。

 毎週土曜日の夕方、横浜教区の司教様の許可を頂いて、修道院の聖堂で主日のミサが捧げられています。利用者さんたちはお祈りが大好きです。「きょう、おみどうある?」とよく聞かれます。(ミサのことです。)「アヴェ マリア、なんとかかんとか・・・アーメン」利用者さんたちは異語の賜物を頂いているようです。祈りの途中は抜けても、最後の「アーメン」はピタリ!と決まります。とても力強いです。時には「あーあー、うーうー」と言葉にならない祈りも、神様にしっかりと届き、しっかりと受け止められ、利用者さんたちの祈りによって学園は守られていると思います。ある日のミサで、閉祭の歌として「ありがとう神様」を歌いながら、聖櫃に向かって深々とお辞儀をしている利用者さんの姿がありました。「神様、ありがとう」とはこのように身を低くすることを誰が教えてくれたのでしょう。きっと利用者さんの心の内に住まわれる神様ご自身なのだと思います。その姿は天国で神様を礼拝し、賛美している天使のようでした。障害者の方々の深い神秘、それは神様の現存なのです。

 学園は障害者施設ということで、時々ご寄附をくださる方がありますが、マザー岡村のお知り合いで日照電気の元社長の奥様から申し出があり、利用者さんが寮以外で集まって交流できる場として、2階建ての家を建てていただくことになりました。1991年(平成3年)交流ホームが竣工し、寄贈者の洗礼名を頂いて、「マリアンナホーム」と名付けられました。利用者さんの中で希望する人は、このホームに集ってテレビを見たり、コーヒーを入れてもらったり、お茶会をしたり、カラオケやダンスを楽しんだり、一時期は大繁盛で、学園になくてはならない場所となりました。利用者さんが天国に召されると、このホームに安置され、職員やシスターたちがお祈りをしたり、お別れをする場でもあります。

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会の目的と精神

わたしはぶどうの木、
あなたがたはその枝である。
ヨハネ15:5

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事業

わたしはまことのぶどうの木、
わたしの父は農夫である。
ヨハネ 15:1

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修道院

わたしがあなたがたを愛したように、 あなたがたも互いに愛し合いなさい。
ヨハネ13章34節

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Blog

わたしに仕える者がいれば、 父はその人を大切にしてくださる。
ヨハネ12章26節

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わたしたちは病気の人、悩み苦しむ人、
弱い立場の人々への奉仕に献身しながら、
神が慈しみ深いことを現します。