第2次世界大戦の前から、日本は結核が国民病と言われるほど流行し、貧困と病気のために多くの人々が悲惨な状況に追い込まれていたその頃のこと、若き医師戸塚文卿は医学研究のためフランスへ留学中に特別な光を受けて、カトリック司祭となり、帰国すると聖ヨハネ汎愛医院を開いて、医療活動と司牧活動を開始しました。次第に協力者も患者も増え、品川から洗足、そして西小山へと移転し拡張していきました。戸塚師の活動を手伝っていた信心深い婦人たちの中に、岡村ふくもいて、彼女は戸塚師と親交のあったモンセニョ-ル・ウラジミール・ギカ師がフランスから来日され、西小山の教会でホーリークラウン(キリストの茨の冠の一片)によって信者を祝福された時に病気が癒され、戸塚師の活動に身を投じていきました。
岡村ふくは、明治32年6月3日、父竹四郎、母政子の5番目の子供として誕生しました。
生後一週間目に洗礼の恵みを受けたふくは、幼い頃から、いつも両親に連れられて神田のニコライ堂へ熱心に通い、日々の生活を通して信仰は育まれてゆきました。
楽しかった小学校を卒業して、香蘭女学校、聖心女子学院の英文科専門学校へと進みました。
この聖心女子学院の少人数で充実した学生生活の中で、とくにマザースから受けたさまざまの教えや生き方によって、ふくは自分が変えられていくのを感じました。キリストのみ教えを宣教するために遠い日本へ派遣されて今、私たちを単に学問のみでなく、キリストへの愛に強烈に駆り立てて下さる…彼女たちをあのように燃え立たせているものは何なのだろうか。…そんな思いがふくの心にふつふつと、わいて来ました。
卒業の年にふくはごく自然のことのようにカトリックへ改宗し、卒業後も 学校に残り、マザーの助手として、語学やカトリックの教えについての授業を受け持ちました。
今から約70年前、東京都小金井市(当時東京府北多摩郡小金井町大字小金井)に木造建築の桜町病院(呼吸器科・精神科)が建ちました。
当時は、貧しい人々が病気になると、その生活は緊迫し、特に当時日本で国民病といわれていた結核は、長い間 国民死因順位の首位を占め、ひとたび感染すると、特効薬もなく、安静、大気療法、栄養補給等による以外治療法もなく、罹患した時には悲惨でした。伝染が恐れられ、人々から隔離され、家族さえも近づくのをためらいました。
その悲惨な状況に置かれていた人々を助けようと医師でありカトリック司祭だった戸塚文卿師は心血を注いで理想の病院の建設のために働きました。
彼は1892年(明治25年)海軍軍医総監を父に、横須賀で誕生しました。暁星中学校、一高、東大医学部を首席で卒業し、1921年文部省から命じられ、国費留学生として、北海道帝国大学助教授の身分で渡仏し、パリのパスツール研究所で組織学を研究中、あるシスタ―との出会いから、カトリック司祭として生きることへの使命を強く感じ、彼の生涯について衝撃的転回をはかりました。
ギカ師はルーマニア出身の司祭、使徒、神秘家、慈善・福祉事業家、殉教者で、現在列福調査が進められています。桜町病院の創立者戸塚文卿師は、留学先のパリでギカ師と出会い、大きな感化を受けて帰国しました。そのウラジミール・ギカ師とはどのような方だったのでしょうか。